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第1章 飲食店の店長&経営者―その絶対条件と役割・仕事

飲食店長の絶対条件(2) 管理的思考をチェックリストで身につける

利益の獲得を目標に合理的に思考する

管理的思考を身につけるということは、すべてにおいて、売上高を上げるために合理的に考えるということだ。管理というと、締めつけるとか行動を規制するといった意味に受け入れる人がいるが、それは違う。

たしかに、従業員に職場規律を守らせることは、ひとつの規制である。しかし、規制したからといって売上げが上がるわけではない。それがお店の雰囲気をよくし、サービスレベルを向上させてはじめて、規制が意味のあるものになるのだ。また、サービスをよくするためといっても、人件費をかけすぎたら、売上高の結果としての利益が飛んでしまう。したがって、つねに必要最低限の的確な人員配置をおこなわねばならないわけだが、そのためには、従業員の個々の能力を向上させておかなくてはならない。

このように、つねに売上高=利益の確保を目的として考えることを、管理的な思考という。

上記は店長の日常管理業務をまとめたものである。お店を運営するためにはじつにさまざまな管理業務があることがわかるだろうが、これらはすべて、売上高を上げるために必要な業務なのだ、ということに着目してほしい。この発想が抜けていると、いわゆる管理のための管理になり下がってしまう。

よく目的と手段を混同するな、という。店長にとって目的とは売上高を増大させ、その結果としての利益を確保することで、毎日の管理業務がその手段である。

ところが、ややもすると、管理自体が目的になってしまいがちなのだ。たとえば、先に挙げたように、職場規律を守らせることにばかり気をとられている店長が、その典型例である。

店長は計数感覚をみがかなければならない

売上高を上げるために合理的に考えるということは、すべての管理業務を計数感覚によってとらえ、実践するということだ。なぜなら、すべての管理業務の結果は数字であらわれるからである。いかに儲けたかということは、いかにお客に満足してもらったか、ということだが、それは数字=売上高と利益でしか確認できないのだ。

こういうと、何か冷たいいい方に聞こえるかもしれない。数字にばかりこだわり、人間らしさのない店長像が思い浮かぶかもしれない。しかし、それは違う。

たとえば、従業員思いの店長なら、何とか部下の給料を上げてあげたいと考えるだろう。労働時間や労働日数も減らしてあげたいし、労働環境も改善してあげたいことだろう。しかし、売上高が増え、利益が増えない限り、経営者は待遇改善をしたくてもできない。

店長しだいで売上高は1-2割は変わる

一般に、飲食店の売上高は店長の能力によって10%〜20%の違いが出る、といわれている。これは、私の指導経験からも間違いないといえる事実である。

これだけの差があるということは、理屈では、ダメ店長のお店とできるお店とでは、標準店の売上高の40%の違いが出るということになる。しかも、利益の違いはもっと大きいのである。

上記は、わかりやすいように月商1,000万円を標準店として、売上高のプラス・マイナス10%と20%のケースをシミュレートしたものである。利益の欄に注目してほしい。飲食店の運営においては、売上高の増減と利益の増減は比例しないのである。

売上高は20% マイナスなだけなのに、利益は85%も減少してしまう。反対に、売上高が20%増えただけで、利益はほぼ2倍に増大するのである。売上高の増減が10%でも、かなりの違いが出ることがよくわかるはずだ。

私が売上高、売上高と繰り返すのはまさにこのためなのだが、マイナスの店長になり下がるか、それともプラスの店長として高く評価されるかは、つまるところ計数管理能力にかかわってくるのである。

計数感覚が身につくと管理精度が飛躍的に高まるところが、現実には計数管理はむずかしくて苦手だ、と尻込みする店長が多い。たしかに、経営に関する計数管理技術をすべてマスターするとすれば、大変なことである。しかし、店長が実際に必要とする計数管理技術はそれほど多くはないし、実務技術自体、それほどむずかしいものではない。

それをむずかしいと感じてしまうのは、要するに慣れていないからなのだGとりあえず必要な計算は、加減乗除(+ 一×÷)ですむのだから、小学校の算数レベルである。最初はとっつきにくくても、根気強く努力すれば、誰でも必ずできるようになる。ウエイターの仕事と同様、反復練習が大切なのだ。

計数感覚を養うと、従業員管理のように直接数字に関係のない管理事項についても、管理精度がぐんと高くなる。なぜなら、ものごとを分析し、合理的判断のうえで的確な答えや対策を導き出そうとする論理的な思考が身につくからである。

会社が儲かるということは、お客が喜ぶということだ。そして、それはそのまま、あなたと従業員の待遇がよくなることでもある。

飲食店長の絶対条件(1) チェックリスト付き店長としての心構え

経営者の代わりに利益を生み出すのが店長の仕事

店長の職務をひとことでいえば、経営者の代行業である。その仕事の内容については、次章で詳しく述べるが、ここではまず、店長の心構えとして次のことを頭に叩き込んでほしいと思う。

それは、自分は雇われていると考えてはいけない、ということだ。一雇われていると思うと、どうしても責任感が甘くなる。最終的な責任は経営者にあるのだからこそ、自分の逃げ道をつくってしまう。それでどうして経営者の代行業がつとまるだろうか。

代行とは経営者の代わりにお店にいることではない。経営者の代わりにお店を繁盛させ、利益を生み出すことが仕事である。そして、店長とはその仕事のプロなのである。もちろん、お店の運営方針はトップが決めることだが、気持ちとしては「繁盛請負人」くらいの気概をもってほしい。

部下全員の動きを調整するのが店長の仕事

飲食店の仕事でいちばん大切なことは、従業員全員のチームプレーである。それが、お客に対して公平で、かつレベルの高いサービスを提供する基本である。つまり、店長はお店というチームをまとめる監督でなければならないのだが、このことを誤解している店長が非常に多い。

たとえば、従業員の先頭に立って働くことが店長の仕事だと信じている店長がよくいる。しかしそれは、実は店長の仕事ではないのだ。店長はふつう、お店の入り回付近に位置している。なぜこの位置にいなければならないのかというと、ホール全体を見渡して、従業員のサービスがキチンとおこなわれているかどうか、監督しなければならないからだ。

もちろん、ランチタイムなどのピーク時など、店長もウエイターやウエイトレスとともに接客サービスに当たらなければならないときもある。しかし、この場合でも、店長の最大関心時は部下の接客サービスにミスがないかということと、厨一房とホールの連携がスムーズにいっているかということの、二点でなければならない。

なぜなら店長には、すべてのお客に満足してもらうための責任があるからだ。すべてのお客に満足してもらうために、部下全員の動きを調整すること、それが、この場面での店長の本来の仕事なのである。部下と一緒になって、自分がサービス要員のひとりになってしまったら、この調整役=監督が不在になってしまう。

いいかえれば、お客の満足に対する責任を放棄しているに等しいのである。たしかに、こういう店長を重宝がる経営者が少なくないのは、残念ながら事実であるが……。

店長みずからがサービス要員になり切ってしまうお店では、従業員にとって仕事とは、たんに「片づける」ものという意識になりやすい。

一方、お客の満足を第一に考える店長は、お客の期待にそむかないように、つねに従業員の動きを見守り、的確な指示を出している。教育、訓練、しつけもしっかりしている。だから、従業員もその指示の意味を理るようになるのである。

店長のリーダーシップ – 部下にやる気をもたせる

チームをまとめていくには、リーダーシップを発揮できなければならない。では、店長のリーダーシップとは何か。ひとことでいえば、部下に意欲づけができるということである。

お店は仕事の場である。店長を中心にいくら仲良くできても、それが仕事の成果=売上げにつながっていなければ、何の意味もない。部下に仕事への意欲をもたせられるかどうかはもちろん、時給や待遇など店長の権限だけでは動かせない部分も絡んでいる。しかし、常識的な職場環境であれば、部下の意欲づけの責任は店長にあるのだ。

リーダーシップを発揮するには、部下に尊敬されなければいけない。人を動かせるかどうかは、人格と人間としての器の大きさにかかわっているのだ。あなただってそうだろう。まるで尊敬できない人間から命令されて、それでヤル気になれるだろうか。

部下に命令する立場にある者は、みずからがその範を部下に示せなければいけない。飲食業の素晴らしさ、お店の現場で働くことの素晴らしさと仕事の重要性を、まず自分が認識することが大事だ。この章で飲食業とは何かについて詳しく述べたのもそのためなのだが、この理解、認識が店長に欠けていては、部下のヤル気を引き出すことはできない。

逆にいえば、その素晴らしさを体現し、感じさせることができるからこそ、部下は店長の命令に納得して従うのである。

したがって店長は、お店の中でもっとも自分に対して厳しい人間でなければならない。自分が目標達成に向かってもっとも意欲と意志のある人間でなければならない。店長が自分に甘い姿勢でいれば、必ず部下も右へならえになっていく。

店長はビジネスマンであることを忘れるな

部下に尊敬されるようになるためには、仕事ばかりでなく、日常の私生活においても十分に注意する必要がある。

店長はお店の看板を背負っているのである。仕事以外の時間でも、この看板は消えることがない。自分では意識していなくても、周囲は店長として見ているものである。

こういうことを意識することが、社会的責任をもつということなのだ。仕事上の責任なら、誰でも意識することができるが、これはなかなかむずかしい。だからこそ、それができる人は部下から尊敬されるのである。

また、出勤時の服装についても十分に気をつけなくてはいけない。店長ともなればビジネスマンである。それが遊びに行くようなだらしのない服装で出動するのでは、人格を疑われても仕方がない。ビジネスマンとしてふさわしい、スキを見せない清潔な服装を心がけることだ。

部下へのキメ細かな気配り

部下によく働いてもらうには、部下一人ひとりの様子を細かく観察することだ。仕事のやり方についてはいうまでもないが、部下の健康状態から私生活の面まで神経を行き届かせて、何か異変があったら素早くキャッチすることが大切である。といっても別に、部下のプライバシーまで詮索しろといっているのではない。

たとえば、若い人は私生活の乱れや悩みが原因で辞めることが多いが、そういうときは必ず、何か兆候がある。服装が乱れるとか、態度がどこかだらしなくなるとか、遅刻をするようになるなどだ。ふだんから細かく観察していれば、必ずそういう変化に気がつく。

気がついたらすぐに、それとなく話をし、相談に乗ってあげる。そういう配慮が大切だということだ。部下にはそれぞれの生活環境があり、家庭の事情もある。それを無視して無理に出動させることが、部下が突然やめてしまう原因になっていることが少なくないのである。

店長はムードメーカーなのだ

店長は朝、必ず早めに出動しなくてはいけない。少なくとも、部下が全員そろう時間には店長はスタンバイの状態にあることが望ましい。

よく、昼のピーク直前になってようやく出勤してくる店長がいる。ひどい場合は、正午過ぎ、お店の中が戦争状態になっているときにのうのうと出勤してきて、汗をかいて走り回っている部下に「おはよう」などと声をかけたりする。

どうしてこういうことになるのかというと、部下の監督としての職務をまったく理解していないからだ。忙しいようだから手伝ってあげようくらいの気持ちしかない。これは、自分が先頭に立って働く店長よりもっと悪い。

店長には、お店がその日一日、ちゃんと稼動できる状態になっているかどうかを確認する責任がある。人員はそろっているか、調理場には食材がきちんと届い

ているか、その他、問題はないか。開店に当たってそれらをチェックするのは、お客の満足に対して責任をもつ店長として、当然の仕事なのである。店長の出動がルーズなお店では、たいてい従業員にも遅刻や欠勤が多い。部下は上司を見習うのである。

そして、お店の中の空気が出勤時間に対してルーズになると、他の規律もどんどん崩れていく。これくらいはいいや、という空気に毒されてしまうのだ。部下の出勤時間厳守は、店長の率先垂範にかかっているのである。

また、店長が朝早く出勤すれば、部下の私服を見ることができるし、部下の精神状態を見ることもできる。部下の気分が乗っていないようなら、明るく声をかけて元気づけてあげなければならない。店長はお店のムードメーカーでもあるのだ。したがって、店長は自分自身にヤル気の波があってはいけない。お店ではいつでも明るく、活気がなければいけないのだ。

そもそも、いつも笑顔を絶やさないというのは、接客サービスの基本である。内心どんな心配ごとがあろうと、つねにあるべきムードをつくる。それがプロというものである。

うまい叱り方で叱るべきときは叱れ

店長はまた、部下を叱ることができなければならない。店長はお店の中の最高責任者である。いいたくないことでも、必要があればいわねばならない立場にいるのだ。最近はこの立場を理解できず、部下に対していい顔をしたがる店長が増えているようだが、叱るベきときに決然と叱ることができないようでは、店長としての資格はない。

なぜなら、叱る必要があるということは、お店の中で問題を抱えているからである。問題は放置すれば必ず、より大きな問題になっていく。そして、叱るなどという対症療法ではどうにもならなくなってしまう。ただし、叱り方というものがある。なぜ叱られたのか、どこをどう直せばいいのかということが、部下に簡単に理解できるような叱り方であると同時に、愛情があるから叱るのだということを伝える叱り方でなければいけない。本心から反省できるような叱り方であるのただ頭ごなしに叱るだけでは、かえって反発を招くだけの改善されなければ叱る意味はない。

飲食店の雰囲気づくりはどうあるべきか

店の雰囲気のよし悪しは店長の責任

雰囲気というのは定義がむずかしい。よく、客席ホールの内装デザインをもって飲食店の雰囲気づくりという人がいるが、そういう人はたいていデザイン偏重に傾いている人である。

たしかに、インテリアデザインはお店の雰囲気を形成する大事な要素であるし、また事実、そのデザインによって雰囲気の方向性はかなり限定されてしまう。インテリアデザインは同時に、他店との違いを見せる差別化の重要な方法でもある。

しかし、デザインがすぐれているからといって、ただちによい雰囲気のお店ということにはならない。むしろ、デザインはけっこう気が利いているのに、お世辞にも雰囲気がいいなどとはいえないお店が多い。

また、飲食業の三要素であるQSCのCはクレンリネス=清潔感だが、清潔でありさえすればどんな店舗でもかまわない、ということではない。清潔感はレストランにおいて絶対に不可欠な要素ではあるが、お客はそれだけでは満足してくれない。当たり前である。

いくら清潔であっても、無味乾燥なただの箱のような店舗では、おいしいはずの料理もまずくしか感じられないだろう。

このように、飲食店のあるべき雰囲気を定義づけるのがむずかしいのは、それが多分に感覚的なものだからだ。もちろん、そんなことはたいていの人が知っている。日ごろから、このお店はいい雰囲気だとか、あのお店の雰囲気は最低だったとか感じているはずである。それを正確な言葉で表現できなくても、別に支障はない。それはそういうことのプロに任せておけばいい。

しかし、飲食店としてのいい雰囲気がどういうものかを感じ取っているのなら、その経験が自店で生かされていなければおかしい。そして、もしも自店の雰囲気に問題があるとしたら、それは店長であるあなたの責任なのである。

お店の雰囲気は、その中で働く人たちにとっては空気のようなものである。そのため、忙しい毎日の営業のなかではつい、その質を顧ることをなおぎりにしてしまいがちだ。しかし、空気のようなものだからこそ、お客は敏感に反応するということを忘れてはいけない。

「店肌」の荒れは人とモノの両面からやつてくる

お店の雰囲気が悪くなることを「肌荒れ」を起こしているという。飲食店の「店肌」には人とモノの両面がある。

人の面での肌荒れは、職場規律の乱れが原因となって進行する。職場規律がきっちりと守られていれば、従業員はいつも生き生きとしている。しかし、職場規律というのは、よほど気をつけていないといつの間にか、緩みが出てくるものだ。そして、いったん緩みはじめると、なかなか歯止めがきかなくなる。

よくデシャップ付近やカウンターの前に手の空いた従業員がたむろして、ぺちゃくちゃおしゃべりに興じたリタバコをふかしていたりするお店がある。彼らにはとくに悪気はないのかもしれないが、こういう行為がお客の目にどう映っているのか考えようともしないところに、問題の根の深さがある。

そこまで乱れていなくても、従業員の気持ちが張りつめていないと、どうしてもお客への気配りが希薄になりがちだ。挨拶が通りいっぺんになるとか、お客から要求されなければ水を取り替えないとか、食べ終えたお皿をすぐに下げない、下げ方がぞんざいになるなど、従業員の「肌荒れ」を示す兆候は数え挙げればきりがない。ささいな兆候はすぐにお客に察知されないかもしれないが、確実にお店の空気を汚染しているのである。

では、モノの場合はどうか。内装、また、テーブル、そして食器。どれも使用期間相応に古ぼけ、痛んでくる。形あるものは必ず壊れるというが、日ごろからクレンリネスを心がけていても、新装開店時の状態を保つことは物理的に不可能で

ある。そして、よほどの高級店でない限り、少しくらい傷んだ程度では新品と取り替えるのは無理な話だろう。

しかしそれでも、やはり程度の問題である。何力所も欠けた食器を出されて喜ぶお客はいないのはいうまでもないことだが、そういう食器を平気で使う神経は、すでにお店の「肌荒れ」が相当進行していることを示している。お客を甘く見ている証拠だから、十中八九、従業員のサービス精神にも問題が生じているはずなのだ。

店の清潔度は店長の意識と意欲のパロメーター

ところで、クレンリネスとはたんに清掃をすればいい、ということではない。お店のどこもかしこもピカピカに磨きあげるという、ハイレベルの清潔感を意味するのである。

料理のおいしさ(Q)もサービス(S)も、クレンリネスによる快い清潔感があってこそ、その価値を十分に発揮することができる。極端な話、本当に清潔感がみなぎっているお店だと、お客は実際以上においしく、感じのよい印象をもつものだ。それくらい大切なことなのだ。

飲食店が不潔であっていいはずがない。そんなことは誰もがわかっている。しかし現実はどうか。残念ながら、本当に清潔感を磨く努力を怠っていないお店は、明らかに少数派である。それゆえ、しっかりとクレンリネスを心がけているだけにすぎないお店が、実際以上に光り輝いて見えたりする。

いつも快い清潔感に満ちたお店だからこそ、お客は楽しい食事の雰囲気を味わうことができる。これは、お客の清潔感覚を満足させるためだけではない。お店の清潔度はそのまま、そのお店=会社の飲食業としての認識のレベルをあらわしているからだ。

ということは、お店の清潔度は店長の意識と意欲のレベルをはかるバロメーターでもあるということだ。汚れたフロアや窓ガラスに鈍感な店長のお店で、質の高い料理やサービスを期待することはできない。このことは、お客がいちばんよく知っている。

過当競争の飲食業界にとっての差別化とは

飲食業界は過当競争時代

いま、飲食業界は大変な過当競争時代である。エリアによってはすでに飽和状態にあり、飲食店淘汰の時代といわれている。資本の大小にかかわらず、飲食店は非常に厳しい経営環境に置かれている。そのシビアさは、ちょっと町を歩いてみればわかるはずだ。多くのお店が苦戦を強いられている。繁華街や駅前、商店街の中心部といった一等地に立地していながら、不振をかこっているお店は数え切れないほどである。

ここで、もう少し日を凝らして飲食業の現状を見てみよう。そうすると、これほどたくさんの飲食店がひしめいていながら、その大半のお店が、各業種間であまり変わりばえのしない商品で競っていることが見えてくるはずである。Aチェーンのお店の看板を取り替えるだけで、Bチェーンのお店になってもおかしくはないような状況だ。別にチェーン店に限ったことではないが、とにかく本当に独自性を訴え得ているお店は、ほんのひと握りでしかない。

大半のお店がドングリの背比べである。類型化の枠の中におさまって大差のないお店が、押し合いへし合い、次元の低い競争を繰り広げている。実はこれが、わが国の飲食業界の過当競争の実情なのである。

こういうことは、たんなる知識ではなく、自分の実感としてとらえてはじめて、意味のある現状認識となる。あなたの働くお店の同業種店はもちろんのこと、いろいろな業種の同業種店を実際に見比べてみることを、強くおすすめする

商品の独自性が大切

そもそも飲食業は、付加価値を売るビジネスである。付加価値とはQSCの二要素である。この二要素のうち、どれが大事でどれはいい加減でいいなどということはあり得ない。しかし、飲食店である以上、看板は商品である。商品のクオリティが低いのでは話にならないのいまのお客は、たんに食事を目的にするのではなく、食事をとおしてその時間と場の気分を楽しむことが目的だといったが、食事の内容=商品自体に魅力がなければ、場の雰囲気は盛り上がらないし、楽しい時間になどなりようもない。

したがって、競合他店との差別化を実現し、繁盛店、儲かるお店になるためには、何よりもまず、商品の独自性、個性をもつことが大事になる。自信をもって売れる商品があれば、お客は遠くからでもわざわぎやってくる。しかし、並みの商品=他店と変わりばえのない商品しかないお店には、近所のお客にすら見向きもされない。せいぜい、ほかに行くお店や時間のないときに利用されるくらいが関の山である。

商品に自信のないお店は、メニュー表やサンプルケースをひと目見ればすぐにわかる。だいたい、品揃えからして没個性的である。その業種らしい商品ならなんでも、ひととおり揃っている。当店の売り物はこれですと主張できる商品がないから、無難な線で考える。その結果、どこのお店でもみな、似たり寄ったりのメニュー構成になってしまうのである。

品揃えにも重要な意味があることを知るべし

飲食店過当競争の時代になって、他店との差別化の必要性がやかましいほど叫ばれつづけている。差別化の決め手が個性化であることなど、いまや誰でも知っている。それにもかかわらずドングリの背比べ状態が目にあまるのは、結局のところ、商品に自信がないせいなのだ。本当に自信のある商品があるのなら、お客に無用な目移りをさせるだけしかない商品を横に並べる必要などまったくない。極端にいえば、ほかの商品は不要。単品商売が成り立つのである。

もちろん、商品政策は単純なものではない。ターゲットとする客層を利用動機を勘案して品揃えを決めるのだから、品目数の多少だけでお店の独自性を判断するわけにはいかない。

たとえば、売りたい商品を際立たせるためのおとり商品が必要になる場合もあるし、ファミリー客やグループ客の多様なニーズに応える必要のあるお店もある。お客にとっては、メニュー表を見ながら何にしようかと迷うことも、大切な付加価値なのだ。

このへんはお店のコンセプトの問題だから一概にはいえないが、商品自体の品質=クオリティばかりでなく、品揃えにも重要な意味があるのだということは、QSCに責任をもつ店長として知っておくべきだ。

商品発想をもて

私は飲食店の経営者に対して、業種発想ではなく商品発想をもて、といつもいっている。経営者向けの本や雑誌の記事にも、そう書いてきた。

商品発想とは、業種は売るべき商品のあとからついてくるものだ、ということだ。たとえば、最近は無国籍料理店とか中国小皿料理店といった新しいジャンルのお店が増えているが、これらは旧来の業種発想からは間違っても出てこない業種である。これらのお店のコンセプトや発想は、頭から業種を無視している。最初に売りたい商品があったのだが、それではお客にわかりにくいから「無国籍」とか「中国小皿料理」と便宜に名乗っただけなのだ。

ヒットコンセプトが出るとすぐに真似するお店があるが、肝心の商品が付け焼き刃ではやはりうまくいかない。業種というのは、そのお店で売っている商品から類似点、共通項を抽出し、便宜上ジャンル分けしただけのことでしかないのである。そして、お客が魅力を感じ、支持をするのは、業種ではなく商品に対してなのだ。だから、その発想の順序が逆になると、結果も反対になる。

こういう発想をもてば、他店並みのメニュー構成でいることに安心しているお店が、他店との差別化などできるはずがないということがよくわかるはずである。

そこには、商品政策のカケラもないのだ、ということが。飲食店の最大の差別化の武器は、強烈な個性を放つ商品だが、そういう商品は、商品発想からこそ生まれてくるのである。

オリジナル商品発想のカギ=五感に訴えろ

では、個性ある商品=オリジナル商品とはどういう商品なのか。こういうと、何かとんでもない変わった商品を思い浮かべる人がいるが、そんなことはない。

オリジナル商品とは、要するに自店独自の商品という意味である。同じメニュー名でも内容が違う、見た目が違う。ほかのお店では味わえない商品であれば、それは立派なオリジナル商品なのである。

頭を切り替えるために、人間の個性を考えてみるといい。十人十色といっても、顔だち、体型ともそう極端に違うわけではない。そのわずかな違いにその人その人の外見上の個性がある。内面的なものにしても、はっきりとした違いはそうあるものではないだろう。

それにもかかわらず、人の印象というのはそれぞれ大きな違いがある。飲食店の商品も同じことなのだ。そもそも「食」は保守的なもの。たんなる新奇性だけでは、一時的な話題にはなっても根を下ろすことはむずかしい。大事なのは、前からある商品を少しでも変革すること。それがオリジナル商品になるのだ。

また、オリジナリティとは別に味だけの問題ではない。形や盛りつけを変えればいいという人もいるが、それがすべてではない。味も見た日も、オリジナリティの表現の一要素にすぎないのである。外食はレジャ―といったが、レジャーであるなら、もっといろいろな角度から楽しさを追求する必要がある。

そこで、オリジナル商品の発想のカギとなるのは、人間の五感に訴えるということだ。視覚(日)、聴覚(耳)、味覚(舌)、嗅覚(鼻)、触覚(手)のうち、ひとつでも飛び抜けた要素があれば、それはオリジナル商品として通用するのである。

視覚・味覚のアピールについてはいうまでもないだろう。しかし、聴覚や嗅覚、触覚に対しての訴求については、まだまだ飲食店の意識は遅れている。とくに嗅覚については、日本人がもともと食べ物の香りを大事にしてきたことを思い出すべきである。そして、季節感の表現。日本人は四季の変化を非常に大切にする。

それぞれの季節には伝統的な行事もある。そういう要素を商品に盛り込めば、いっそう強力な差別化の魅力をもつ商品となる。このように、商品による差別化とは単純ではないが、しかしけっしてむずかしいことではない。とにかく飲食店は、まず商品ありき、なのである。

「あるべき飲食店サービス」とは何かを知る

自店の「心」は何なのかを知る

QSCのあるべきレベルとはその会社のスタンダードであるから、実際には会社のトップ=経営者が決めるものである。店長の仕事は、そのスタンダードをお店の中で実現し、お客の満足を得ることであり、満足してくれるお客の数を増やした結果が売上高アップである。したがって、自店のサービスがどうあるべきかということは、すでに決まっているわけである。

それなら店長は、経営者の指示どおりにサービスをおこなえばいいことになる。それは言葉のうえでは正しい結論だが、実際はなかなかそうはいかない。サービスとはたんなる形、スタイルではないからだ。

飲食業とは、飲食というモノを通して心を売るビジネスである。この「心」の部分、サービス業としての精神的裏付けなくして、ただ形だけのサービスをおこなっても、お客にとって感動のあるサービスにはならない。このサービス業としての「心」を経営者がどう考えているのか。そのことを本当に理解できなければ、店長として失格なのである。

自店の「心」を従業員に教え、徹底させるためには、何よりもまず、店長であるあなた自身が、サービスの精神的裏付けについて、幅広く知っておく必要がある。

ひとつのレベルを理解するということは、たんにそのレベルの仕事を鵜呑みにすればいいということではない。その上のレベルも下のレベルも熟知することによってはじめて、自分の立つ位置を正しく認識することができるのである。

ボーダーラインを上回るサービスを意識する

さて、飲食店のあるべきサービスとは、いうまでもなく、お客を満足させるサービスである。ところが、これは国でいうのは簡単だが、実践するのはむずかしい。なぜなら、お客の満足感とは一定のものではないからだ。それは、個々人の違いもあるが、根本的にはお客のお店に対する期待度の度合いによって変わってくるものである。

たとえば、ファミリーレストランに入って、客単価1万円以上のフランス料理店のサービスを期待するお客はふつうはいない。逆に、そのフランス料理店で、ファミリーレストラン並みのサービスを受けたお客は、三度とそのお店に足を運ばないだろう。それでは、ファミリーレストランならサービスの手を抜いてもいいのかというと、そんなことはあり得ない。ファミリーレストランのお客は、その利用動機と代金の対価として十分なサービスを期待しているのである。

このように、お客の満足度は一概に定義することができない。しかし、お客の利用動機と客単価によって、おのずとサービスレベルのボーダーラインというものがある。ボーダーラインとは、その業態で最低限なされなければならないサービスレベルのことだ。

したがって、飲食店としてはまず、このボーダーラインのサービスを徹底することが基本になるが、それだけでお客が本当に満足してくれるとは限らない。なぜなら、同業態の競合店がいくらでもあるからだ。B店でもC店でもおなじようなサービスを受けているお客にとって、ボーダーラインのサービスは代金の対価として当然のことでしかない。だからとくに不満は抱かないかもしれないが、満足することもない。満足とは感動だからである。

それでは、どうすればお客を感動させることができるのか。答えは、ボーダーラインを上回るサービスということになる。といっても、大袈裟に考えることはない。ボーダーラインのサービスにもうひとつ、お客の心を動かすサービスを付け加えればいいのだ。

もう1度来たくなるサービスとは

お客が感動するのは、予期していないサービスを受けたときである。たとえば、高級店ではないのに店長が席まで来て挨拶してくれたとか、食後に「お楽しみいただけましたか?」と声をかけられたとか、もう一度熱いおしばりが出されたとか、そういうときお客は、「このお店を利用してよかった」という気持ちになる。

食事というのは多分に気分的なもので、そのときの気持ち次第で、おいしくもなればまずくもなる。そこでこういう期待以上のサービスを受ければ、料理を実際以上においしく感じるだろう。

このように、わずかな心づかいがお客を感動させ、その満足感は強い印象となってお客の心に残る。それは、お客の期待を上回るサービスをしたからである。そして、こういうサービスを心がけ実践することで固定客が増え、さらに固定客の回コミや新規客の同伴を期待することができるのである。

サービス業の本質はホスピタリティ

サービスは基本のサービスと応用のサービスとに大別される。基本のサービスとは、

①いつも絶やさぬ笑顔
②明るくテキパキとした態度と接客基本用語

の二つである。こんなことは、飲食業に従事している人なら誰でも知っていそうなことである。ところが、当たり前のことを当たり前にやるということが、実は意外とむずかしいことなのだ。

たとえば、いつも絶やさぬ笑顔を全員で実践できているお店がどれくらいあるのか。 一応は接客基本用語を話し、動作はテキパキとしているが、まるで怒ったような顔をしていたりする。たくさんの人を使うのだから、なかにはそういう人がいるだろうし、仕方がない大抵のお店は、そう言い訳するが、サービス業としてそんな弁解が通用するはずがない。

何ごとも基本がむずかしいというのは、基本にこそ、もっとも大切な要素のエッセンスが詰まっているからなのだ。お客に対していつも笑顔を絶やさずに、というのは、いわゆる愛想笑いの意味ではない。まず第一に、お客に感謝の気持ちをあらわすこと。そのうえで、温かなおもてなしをするためなのである。

サービス業の本質はホスピタリティである。ホスピタリティとはもともと、病気の人を手厚く看護する、ということから生まれた言葉だが、それはそのまま、サービスの基本はテクニックではなく、温かな真心なのだということを意味している。わが家に親戚知人を招いたときの気持ちでサービスせよ、というのは、この温かいおもてなし精神をいっているのである。

従業員にプロ意識をもたせよ

つまり、基本のサービスとは働く人の心の問題であり、技術的にむずかしいことではない。ところが往々にして、従業員にこのおもてなしの心、感謝の心を教えず、接客用語や基本動作だけ教えてよしとしている

しかし、そういうお店では、その形がかえってマイナスに作用する。心のこもらない形ばかりの接客は、ロボットがサービスしているのと同じである。極端にいえば、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」とテープが繰り返し、料理はベルトコンベアーで運ばれてくるようなものだ。これでどうして、お客を感動させることができようか。

もちろん、接客基本用語と接客態度を教えることは大事なことである。そして実は、それが見苦しくないレベルにまで身につけさせるには、相当の訓練の積み重ねが必要だ。

また、人間いつも笑顔でいることは、そう簡単なことではない。しかし、お客の前に出る以上、内心どんな不愉快なことがあろうと、つねに明るい笑顔でなければならない。それがサービスマンの役割だからだ。パートタイマーであっても、給料をもらう以上はプロなのだ。だから、従業員にそういうプロ意識をもたせるように指導するのは、店長の責任である。

プロ意識とはサービス精神のことだ。サービスマンとしての経験をそれなりに積んで、応用編になってくればそれがわかりそうなものだが、実際は逆に、表層的なテクニックにばかり気を取られてしまうことが多い。たとえば、妙に客あしらいがうまくなるとか、料理を運ぶ身のこなしがスマートだということが、ベテランサービスマンだと勘違いしやすいのである。

応用のサービスとは、状況に応じて素早く機転を働かせ、サービス精神を発揮できるレベルのことをいう。接客用語など、経験を積んでいけば自然と身につく。

しかし、それがたんなる反射行動では意味がない。とくに大型店の場合、こういう誤解が生まれやすい。ここにも、店長の従業員教育の大切さがある。

店長がサービス業としての認識をもつことが根幹

お客の立場で感じた経験を生かせ

前項で、サービス業であればお客を大切にすることなど当たり前のことだ、といった。ところが、この当たり前のことを当たり前にするということが、意外とむずかしい。サービス業という言葉は知られているのだが、それが実際にどういうことなのかとなると、案外と知られていない。このことは、あなたが日ごろ利用している飲食店のサービスレベルを思い起こしてみれば、すぐに気がつくはずです。

もちろん、雰囲気のよさや接客ぶりに感心したというお店もあるだろうが、腹立たしく思ったり、それをとおりこして呆れ返ってしまったお店も少なくないと思う。

実はこういうことは、誰もが感じていることなのだ。だからお客は、お店を選ぶ。不快な思いを繰り返したくないからだ。とすれば、飲食店のサービスレベルは全般にもっと向上していいはずである。ところが、現実はそうはなっていない。

どうしてなのか。飲食業に従事している人たちが、自分がお客の立場で感じた経験を、自分の仕事に生かしていないからである。少なくとも、店長であるあなたは、このことを真剣に反省してみる必要がある。自分がお客のときに「こうしてくれたら」と思ったことを、自分はお店でお客に対して実行しているだろうか、と。そして、こう自戒してサービスの向上に努力しようとすることが、サービス業としての認識をもつことの第一歩なのである。

お客に「尽くす」ということ

サービス業という仕事をひとことで表現すれば、それは「お客に尽くす」ということだ。では、「尽くす」とはどういうことなのだろうか。

ここで、お店での接客サービスを具体的に考えてみよう。

お客がお店に入ってきたら「いらっしゃいませ」といい、帰るときには「ありがとうございました」という。お客を席に案内し、水のグラスを出してオーダーをとる。料理ができたらお客のテーブルまで運び、お

大ぎっぱにいえば、これが接客サービスの実際である。問題は、これではたしてお客に尽くすことになるのかどうか、ということだ。たしかに、これらは接客の基本ではある。しかし、その基本をなぞるだけでは「尽くす」ことにはならないというところに、サービス業の奥の深さがあるのだ。

お客が感動するのは、自分が大切にされていると感じるときである。では、どうしたらお客にそう感じさせることができるのだろうか。それは、お客を愛することによってしかできない。愛する人のためだからこそ、かゆいところに手が届く。できるだけ食事を楽しんでもらいたい、というこころが自然と体を動かすようになる。これが「尽くす」ということである。

お客を愛する=これが仕事の根幹

たとえば、同じ「いらっしゃいませ」の言葉でも、心がこもっているといないとでは、まったく違う響きになる。「ありがとうございました」も、本当に感謝の気持ちがこめられていなければ、お客の耳には空々しく聞こえるだけである。しかし、自分の給料を払ってくれているのは会社ではなく、お客さまなのだ、と思っていれば、わざとらしく強調しなくても自然と、言葉の響きに感謝の気持ちがあらわれる。心から感謝されて、いやな気分になる人はいない。

また、そういう感謝の気持ち=お客への愛があれば、お客の食べるスピードをはかりながらタイミングよく次の料理を出すとか、お客の会話を妨げてしまいそうなときにはできるだけ邪魔をしないように心がける、といった細かな配慮が無理なくできる。

お客を感動させるこういうサービスは、形ばかりのお仕着せサービスでは絶対にできない。愛する人のためならたいていのことは苦にならないが、そうでない人のためとなるとちょっとしたことでも億劫になるというのが、人間の心理というものだ。

お店が繁盛するということは、そのお店にQSCの価値があるということだが、いいかえれば、多くのお客にお店の愛が受けとめられている証拠である。だから私は、繁盛させるのは実は簡単なことなのだと、いつもいっている。お客は愛に包まれた飲食を買いにくるのだから、ひたすらお客を愛することだ。それが、サービス業=飲食業の仕事の根幹なのである。

お客の満足感とは豊かな気分を味わうこと

外食は消費者にとって、もっとも身近なレジャーである。この真理は、昔も今も変わらない、ただし、レジャーの質、中身は大きく変わってきている。飲食業=サービス業としての認識をもつうえで、このことの理解も大事な意味がある。

30年前、日本がまだ貧しかった時代には、お世辞にもサービス業などとはいえないお店が大半だった。

なぜなら、当時の飲食業界にはサービス業という認識はほとんどなく、空腹充足業であることを自他ともに認めていたからだ。もちろん、空腹を満たすことはお客の第一の目的だった。ふだんと違うモノを食べることが、家庭のちょっとしたお祭り=レジャーだったのである。だから飲食店は、飲食というモノをポンと出すだけで、十分に成り立ち得た。

しかし、いまは豊かな時代である。飲食業はもはや、空腹充足業ではない。レジャービジネスとして成長し、消費者からも豊かな時代にふさわしいレジャーであることを期待されている。よく飲食は人間の生活から切り離せない、といういい方がされる。だから飲食業はビジネスとして安定している、と考えている人は多い。

たしかに、この考えは一面では間違ってはいない。しかし、そういうモノに根ざした発想は、30年前の発想だということを指摘しておきたい。

いま、お客が飲食店に求める豊かさに実感とは、ゆとりとか楽しさといった精神的、情緒的なものだ。料理がおいしいに越したことはないが、それ自体が目的ではなくなっている。親しい友人や家族と食事をする。

その楽しく豊かな時間を過ごすことが大事なのであって、食事というのはそのためのシチュエーションの性格が強くなっている。これが豊かな時代のレジャーという意味である。レジャーは生活に欠かせない喜び、楽しさだ。その喜びを多くの人たちに提供するのだから、飲食業は価値あるビジネスといえる。

こういうレジャーをお客に提供するにはどうしたらいいのか。答えはおのずと明らかになってくるはずだ。

モノを提供すれば済んだ時代は、仕事は料理を出すことで完結してしまっていた。しかし、豊かな気分が重視されるいまは、楽しめるお店にすることが求められている。QSCの三要素のバランスが大切だというのは、このためなのである。

料理のクオリティが高いことは当然のこととして、それプラス、楽しい雰囲気とそれを演出する愛のあるサービスがなければ、お客は豊かな気分になどなれるはずがない。お客の満足感とは、豊かな気分を味わえたということなのである。

サービス業の店長ならではの生き甲斐

サービス業としての認識をもつことは、この仕事のやり甲斐、生き甲斐に結びつく。たとえば、モノをつくって売るだけでは、お店の顔が見えてこない。しかし、飲食業は違う。お客の反応を目のまえで見ることができる。 一所懸命に尽くせば、満足してくれているお客の気持ちが直接、伝わってくる。お客との血のかよった関係が成り立つから、その場その場で自分の仕事への充足感を味わえるのだ。

いうまでもなく、仕事のやり甲斐とはこうした充足感があってはじめて、生まれてくるものだ。たしかに、会社から評価され、それが収入アップや昇進につながるという喜びもある。しかしそれは、やり甲斐をもって働いた結果として、自然とついてくるものである。

この充足感のすばらしさこそが、サービス業の原点ともいえる。お客を喜ばせることがそのまま、自分の喜びの実感となる。生き甲斐がストレートに自分の豊かな生活に結びつく。これは飲食業ならではの魅力だが、それはサービス業だからこそ味わえる醍醐味なのである。お客の笑顔を見るだけで自分の気持ちが浮きうきしてくるようであれば、あなたには立派な店長になれる資格がある。

飲食業の価値を決めるQSCの三要素(商品・サービス・雰囲気)

「飲食業とは何か」を整理する

店長の仕事とは何か、ということを考える前に、飲食業とはどういう業種なのかについて、整理しておこう。なぜなら、このことを本当に理解していなければ、あるべき店長の姿が見えてこないからだ。

飲食業がサービス業だということくらい、誰でも知っている。サービス業であれば、お客を大切にすることなど当たり前のことである。しかし現実に、本当にお客を大切にしているお店が、どれほどあるのか。ランダムに100店のお店に入り、お客としての日で採点してみるといい。少なくとも、繁盛店とそうでないお客との違いが見えてくるだろう。

とはいえ、その違いをひとことで表現するのはむずかしいはずである。その違いは商品力だったり、サービスの仕方だったりで、ひとつの要素だけを取り上げて同列に並べて論じることはできない。ここに、飲食業のむずかしさがある。

また、同じような接客用語と接客態度であっても、お客として感じる居心地のよさとか楽しさは、A店とB店とではかなりの違いが出てきたりする。味もボリュームも値段も似たようなものなのに、満足感が違うというのもよくあることであるcでは、こういうお客の印象の違いは何に起因しているのか。店長たるもの、その原因を明確につかみ取っていなければならない。

居心地が悪かったり満足感が薄かったら、お客は三度と自店を利用してはくれないのである。

逆にいえば、お客は何をもって飲食店を評価するのか、ということだ。お客は飲食店に何を期待し、何を求めているか。それがわかれば、お客の心をひきつけ、繰り返し来店してもらえるようになるだろう。

よく店長の責任は利益を上げることだ、という。たしかにそのとおりだが、利益を上げるためにはまず、しかるべき売上げを確保しなければならない。利益とは、売上げからさまざまな経費を引いた残りなのだ。

そして、売上げとはお客の支払ってくれた代金である。客数が増えなければ、つまり一人でも多くのお客に支持されなければ、売上げよりも経費が上回って利益どころではなくなってしまう。

飲食店はただお店を営業していればお客が来てくれる、というものではない。お客はお店を選ぶのである。しかも、いまのお客は外食に慣れているから、お店に対する選択眼は非常に厳しい。

しかし、お客は何も法外なことを要求しているわけではない。飲食店を利用するにあたって当然のことを期待し、求めているだけである。ところが、その期待に沿えないお店があまりにも多いのが現実だ。当たり前のことを当たり前にやっているだけのお店が繁盛する、という皮肉な状況すら生まれているのである。

Q(商品)とS(サービス)とC(雰囲気)

ところで、飲食店も食料品店も同じく食べ物を売っているのだが、飲食業の粗利益率は食料品店に比べてはるかに高い。それは、飲食店は食べ物プラス付加価値を売っているからである。食料品店が物販業で飲食店がサービス業と区別されているのは、そのためだ。

つまり、粗利益率が高い分に見合った付加価値がなければ、サービス業とはいえないのである。付加価値とはお客にとっての価値であるから、それが少なければ当然、お客は評価してくれない。お客に「不当に高い代金を取られた」と思われても文句はいえない。

では、飲食店の付加価値とは何か。ふつうこれを、飲食業の三要素として、次のように表現している。

①商品(クオリティ)=Q
②サービス=S
③雰囲気(クレンリネス)=C

商品=料理の内容は、お客に十分に納得してもらえるレベルにあるか。サービスのレベルはサービス業としてのレベルを維持しているか。お客のフロアは食事をするのにふさわしい雰囲気で、かつ常に清潔に保たれているか。

これら三つのレベルがお店の代金と比較して正当であると認められれば、そのお客は支持を受ける。そして、そのレベルが上がれば上がるほど、お客は繁盛することになる。

お客がお店の評価を下すのは、ふつうは食事を終えてレジで料金を支払うときである。お店に人った瞬問から、そのお店の雰囲気はある程度つかめる。メニュー表を見れば、価格は一目瞭然である。そして料理を食べれば、味のレベルとサービスのレベルもわかる。

しかし、そういう段階では食事を楽しもうという心理が働いているから、それらの印象はふつう、判断材料にとどまっている。しかし、レジでは違う。人間は具体的にサイフが痛なときもっともシビアになるからだ。

このとき、お客が高いと感じるか、安いと感じるか。それがお店の繁盛の成否を決定づけるのである。

飲食店の価値はQSCの総合力で決まる

いまQSC〇二要素のひとつ(Q)として商品=料理を挙げたが、飲食店の価値はあくまで、これら二要素の総合力で決まるのである。

もちろん、飲食店は料理を売るのだから、商品は料理ということになる。しかし、飲食店の売りものは商品だけではない、ということだ。料理プラス人的サービス、内装の醸し出すムード、そして清潔感が一体となったものが、本当の意味での飲食店の売りもの=商品なのである。逆にいえば、これら三つの要素がバランスよく保たれていなければ、お客の支持は得られないということになる。

たとえば「うちの料理はおいしいのだから」という自信が強すぎるあまり、サービスや雰囲気に対してほとんど神経を使わないお店があるが、たいていは繁盛とはほど遠い状態だ。反対に、料理は他店に比べて格段にすぐれているわけではないのに、大繁盛しているお店もある。こういうお店を見て前者の経営者は「味がわからないお客だ」と、お客を馬鹿にしたがる。しかし、いくらお客のせいにして自己満足にひたってみても、売上げが上がらないのでは話にならない。

前者の間違いは、飲食店の売りものは料理だけだと決めつけている点だ。だから「おいしければお客は入る」と短絡的に思い込んでしまうのしかし、いまのお客はたんにおいしいだけでは満足しなくなっている。

おいしいことなど飲食店の当たり前の条件と思っている。よほど飛び抜けたおいしさと価格の安さがなければ、料理だけではお客を呼べない時代なのである。

QSC=お客が期待するポイント

くりかえすが、飲食業の粗利益率が食料品店などに比べて圧倒的に高いのは、そこに付加価値分が含まれているからである。少しくらい料理がおいしくても、それだけでは材料原価の三倍の価格をお客に納得させられない。調理技術も付加価値の一要素(料理のクオリティ)ではあるが、サービスや雰囲気とのバランスがとれてはじめて、その価値が生きてくるのである。

一応サービス要員がいたとしても、そのサービスのレベルが低ければ、お客はサービスとは思わない。逆に、どんなに愛想のよいサービスをしても、料理がまずかったり、薄汚れたフロアでは、お客は振り向いてくれない。QSCの三要素とはこのように総体としてはじめて機能するものであって、そのトータルな付加価値が、お客のお店に対する評価の対象となるのである。いいかえれば、QSCの三要素とは、お客が飲食店に期待しているポイントである。

QSCと店長の仕事

ここで、店長としての立場でQSCの三要素について考えてみよう。三要素のレベルはどの程度でなければならないのか、という命題に直面するからである。

結論からいえば、そのレベルを決定するのは会社=経営者である。店長の仕事とはおおまかにいえば、経営者が考え設定したQSCの総体的レベルを身につけて、それをつねにお客に提供できるようにすることなのだ。このQSCに関する会社の総体的レベルのことをスタンダードという。

もちろん、店長であるあなたの経験や知識を生かして、改善策を経営者に具申することはすばらしいことだ。しかし、スタンダードはあくまで、経営の理念や戦略に基づくものだということを忘れてはならない。

店長の仕事とは、その戦略を実現するための戦術である。そして実現すべきものは、店長個人のレベルではなく、会社の設定したレベルなのである。

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著者紹介:宇井 義行
コロンブスのたまご 創業者・オーナー

学業のかたわら、18歳から飲食店で働きながら実践的な飲食業を学び、23~25歳で6店舗の飲食店経営を手掛け、超繁盛化。赤字店の1ヶ月での黒字化など奇跡を起こし注目を集める。 26歳の時、実践的な「飲食コンサルタント」として独立。個性的な店、地域一番店を目指し、情熱ある現場直接指導に力を注ぎ、 全国の飲食店3000店舗以上を指導。指導歴日本一のフードコンサルタントとして数多くの難問を解決。不振店を繁盛店へと生まれ変わらせる手腕は業界屈指のリーダーとして国内外で高く評価されている。